2016年6月6日月曜日

「置かれた場所で咲きなさい」の考え方(その2)

「置かれた場所で咲きなさい」の考え方(その1) からの続きです。

前回は「そもそも人は、本当にどこでも咲けるほど強いのか?」というのについて書いたんですが、よくよく考えると、「咲く」という表現について、やっぱり注意しないとダメだなーと感じます。



「咲く」という表現を誤用すると、以下のような悪用ケースが発生します。


  • ブラック企業の上司が、部下を良いように使い捨てするために、置かれた環境でまず結果を出さないとどこに行ったって役に立たんぞ・・・と脅すためにこのフレーズを持ち出す。
  • 企業など、組織の構成員向けの研修で、現場や環境に不満を言う前に、まず自分で動こうとしないと駄目だよ・・・と、その組織にロックインするために、脅すためにこのフレーズを持ち出す。


ようするに、環境を用意して、支配する側が、そこから逃げ出さないようにするため、「まずこの環境で必死になって働いて成果を、結果を出せ。それができないのは人間として劣ってるので、この環境から逃げ出したってどうせ同じことになる。」と脅すのに使うわけです。

これ、何が間違ってるかというと、そもそもこのフレーズは(その1)でも書いたように、人間が人間に対して命令のニュアンスで発するものではないからだと、私は考えます。
信仰を持った・・・まぁ、持ってなくても問題はないのですが、自分が自分に対して説き、問いかけるためのものです。信仰を持っている人なら、自分の中の神仏から説かれ、問いかけられるものだと思うのです。

また、「咲く」の内容がやはりおかしいです。何故かと言うと、会社やその組織が求めるもの・・・つまり、「人」が決めてしまってるからです。

そうではない。このフレーズが出てきたのが、キリスト教の方からだとすれば、これはやはり、「咲く」の内容は人が決めるものではなく、神しか分からないものだと考えます。人の決めた尺度で「咲く」の内容は決められない、その人が本当に咲けたのかどうかは、その人自身と神さまにしか分からない。
だからこそ、このフレーズは自分が自分に対して発し、説き、問いかけるものだと思うのです。

だからといってその人が自分勝手に「私は自分が幸せだから~」と好き勝手しても、それはさすがに違うと思います。そこはやはり、良識の範囲で、他者を笑顔にして、幸せにするために動けるようにしたいところであります。

こんな具合に、宗教を元ネタとしたフレーズが人の尺度で良いように使われてしまうと、悪用されてしまうのもあるんですなぁ。恐ろしいことです。

それにしても・・・真面目な人が真面目に働こうとしてるのに、このフレーズを人の尺度で脅しにつかおうなんて、おこがましいにも程があるよなぁ・・・。そんな場所で、無理して「咲く」必要は無いんじゃないかなぁ、とも思ったり・・・。もっと神仏に愛されてる場所で咲こうぜ!(ドコだよ

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